さなぶり





儀式と祭りに区別が無かった

畏敬と感謝がほぼ同義語だった時代

その単語は共通語でありながら方言で

名残だけが日常のいたるところに棲んでいる


あの時徐福が蒔いたものたちを食べつづけ

ウケステメが賜った桃は燃えながら潤いつづけ

サナブリアラブリつづけてる

余すことなく

すべての我々



2016年6月






龍とは一体何なのでしょう。



奈良から熊野へ抜け、海沿いを走っていた時にとても惹きつけられる場所を発見しました。
そこは弥生時代後期、紀元前210年頃、秦の始皇帝に不老不死の薬を探すよう命じられ渡って来られた「徐福」という人の墓でした。


※ ここからは完全な想像と推論になります ※

「龍」の概念が生まれたのは丁度その頃だと思っています。
考古学的には、弥生時代の終わり頃に龍は出現したとされています。
その頃の土器に龍の意匠と見られる統一的な文様が見られるようになるためです。

殆どがこのような文様で基本的にS字型になっているのが特徴(必要)で、
背びれや尻尾と思われる突起、口が開いている様子が見て取れます。



かつて龍が入ってくる前の線刻画は、トンボや亀、鹿が多く描かれていました。

水稲稲作は縄文時代にもありましたが、区画を整備し本格的に稲作を始めた頃、
水をコントロールする、水を司る神として龍神が必要であったと思うのです。
この背景を考えると、絵というよりは何らかの目的を以て、
おそらくは人々の意識を統一するための何かの象徴を焼き付けた文字か記号であると考えています。
田に水を引き込む水口に龍を配した土器を並べたり、水の祭祀をしていた痕跡が出てきます。


徐福は焼物・土木・農耕・捕鯨・医薬など中国文明を里人に教えたと言われ、様々な場所にゆかりを残しています。
そしてこの絵を描いた後「あ、これ徐福さんだ!、龍を連れてきたのは徐福さんだ!」と思ったのです。




龍とは一体何なのでしょう。


「水システム」を征するためのはっきりとした概念としての龍を連れてきたのは徐福さんだと考えながら、
やはり思いは縄文時代へと遡っていきます。


弥生時代の統一的な記号としての龍とは異なり、縄文時代の土器や品々は極めて自由な発想と意匠で創作されています。
そこには驚くほど多くの蛇の意匠が渦巻いていて、一言でいうと蛇だらけなんです。
人間が生きていく上で絶対的に必要なモノをもたらしてくれる神々を崇め象ったものだと思うのです。
龍神祝詞にもありますように自由自在に変幻し、様々な作用をもたらしてくれます。

目には見えないけれど常に私たちの周りに満ち溢れているフリーなエネルギー全体の象徴として象られていたのだろう、
縄文人はそれを感じ使用していた世界であったと想像が膨らみます。











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