ももの日の誓約





それ以来 そこには一人で行く
うねりの前夜祭は こんな光景だった

「あ」の文字を刻んだ人も

観ていただろうか・・



三月三日ももの日の夜

神官は砂曼荼羅の上に祈りと共に火を生み起こした


暗闇の中に揺れるのは蝋燭の火だけ

ゆっくりと十字を切る柳の枝から滴る聖水
灌頂の水が十字を切る所作がスローモーションになる

菱と剣が重なり舞う光景


やがて火の鳥朱雀と水の青龍との相剋は和合と始まりへの誓約となった



謎めいたな儀式を目の当たりにしながら
その意味を紐解くのに私の寿命は足りるのだろうかと感じてから

既にどれだけ時間が流れたことか



今も重奏は響いたままだ



2008年9月




吉野という地はとても奥深くて、まだまだ私の浅はかな深読みも追いつきません。
魅惑の謎と、懐かしさと、吉野びとのぬくもりと。



「天河大弁財天社」(てんかわだいべんざいてんしゃ)

【旧号】
郷社

【鎮座地】
奈良県吉野郡天川村坪内

【御祭神】
市杵島姫命(イチキシマヒメノミコト)
熊野坐大神
吉野坐大神
南朝四代天皇の御霊(後醍醐天皇・後村上天皇・長慶天皇・後亀山天皇)
神代天之御中主神より百柱の神

【御神紋】
五十鈴



宗像三女神の一人、市杵島姫命(イチキシマヒメノミコト)を主祭神とします。
芸能の神として知られ、現在も芸能関係の方が多く参拝されます。
元の祭神名は弁財天(サラスヴァティー)で、神仏分離により「市杵島姫命」と称するようになりました。
この事から「弁財天」としても信仰され「厳島、竹生島と並ぶ日本三大弁財天のひとつ」とされています。


天河大辨財天社の草創は飛鳥時代、役行者が紀伊山地最高峰である弥山(みせん)山頂に鎮守として祀られたのに始まり、奥宮とされています。
その後、吉野に深い思い入れのあった天武天皇が、壬申の乱の際に戦勝を祈願・勝利の後、
壺中天の故事に倣い現在地の天川村坪の内に社殿を寄進されたと言います。


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壺中天とは中国の思想で、この世界は壺の中の様なものでその中に別天地があるという世界観です。
社殿の周囲は昔はもっと湖みたいだったという伝説があり、
本殿の建つ琵琶山には古代の磐座があり神武天皇がここでヒノモトの言霊を賜ったとされ、
禊殿の裏山の高倉山は水晶であると考えられ強いエネルギーを放ち、
また坪の内という地名・地形も示すように当にこの場所が壺中天の中心であると考えられたのではないかと推測しています。
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また、弘法大師空海が高野山の開山に先立って3年間大峯山に参籠・修行し、その最大の行場が天河神社であったようです。

『吉野町史』によれば「吉野総社」と呼ばれる格式の高い社として拝されていた歴史があり、
「大峯第一、本朝無双、聖護院、三宝院両御門跡御行所」(天河社旧記)や「大峰本宮」として認識されており、
大峯山に於ける信仰の中心地しての地位を早期に確立していました。
この場所は南朝の皇居が47年間置かれた土地といわれており、そのため南朝の崇敬が特に篤かったようです。



「五十鈴」(いすず)または「三環鈴」

天河大辨財天社に古来より伝わる特徴的な形状の神宝で、球形の鈴が正三角形に結ばれています。
三つの球形の鈴は、 

「いくむすび」
「たるむすび」
「たまずめむすび」

を表し、魂の進化にとって重要な三魂みむすびの精神を具象化したものです。



5世紀の古墳、例えば新沢千塚古墳群や馬見古墳群などから、青銅製で同形状の鈴が豪奢な馬飾りや甲冑と一緒に出土しており、
渡来系の遊牧騎馬民族をルーツに持つ人々が同じ様なものを持っていたようであります。

毘沙門天の額にも刻まれており、その出で立ちをよく見れば連想できるその出自。
どこからどう見ても騎馬民族色しかないように思うのです。


またペルシャはササン王朝最後の偉大な王と言われるホスロー2世を象った金貨には首と耳に五十鈴が飾られており、
そのつながりに非常に深い興味をそそられます。



参考文献
・Wikipedia 「天河大弁財天社」最終更新 2020/3/11 4:35




(第11話)【ウケイと月と日と日本のお話】ELCAFLORA Mitsukoのトキジク日記








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