よしの秋めく





たまには普通に季節の山でも・・・と。

泣こうが笑おうが、また秋がやって来た。



2010年10月




吉野山(よしのやま)は奈良県吉野郡吉野町にある吉野川南岸から大峰山脈へと南北に続く約8キロメートルに及ぶ尾根続きの山稜の総称で、
金峯山寺を中心とした膨大な数の社寺や旧跡・伝説・伝承・歴史を有する、日本が日本となっていく時流において極めて重要な場所です。

吉野山は山岳霊場・修行道「大峯奥駈道」の北端にあたります。
南端の熊野を発して吉野に至るのを順峯といい、北端の吉野から熊野に至るのを逆峯と呼びました。

古くから花の名所として知られており、殆どが白山桜でその数は約3万本にも及ぶといいます。
その咲き振りは一目千本と呼ばれ、山下から山上へと順に下千本・中千本・上千本・奥千本と呼ばれています。

大峯奥駈道を開いた修験道の開祖とされる「役小角」が「金剛蔵王菩薩」を感得し、蔵王権現像を彫った時に用いられた木材が桜樹でした。
以降、行者達は桜材を使い権現を彫刻し祀る習わしとなったことで桜は神木となり、
蔵王権現に祈願する際には神木とされる桜の苗を寄進するのが最善の供養となる風習が起こり、
平安時代の頃から多くの桜が植えられるようになったと言います。

また「大海人皇子」(後の天武天皇)が、吉野の寒中で庭の桜が満開になる夢を見て、
これが奮起となって天下を定めたことで桜は霊木であり神木であるとされ、桜の愛護が始まったとも伝えられます。



※672年※
大海人皇子(後の天武天皇)は(諸事情あって)当時の大津の都を離れて出家し吉野山に隠棲しました。
その後兄の天智天皇の死の知らせを受けて兵を上げ、天智天皇の子の大友皇子を倒し政権を握りました。
これは「壬申の乱」として大変有名な史実です。
このとき大海人皇子が吉野について詠んだ有名な歌があり、吉野への想いがひしひしと伝わってくるものです。


※1185年冬※
源義経・弁慶らは源頼朝の討伐を受け吉野山に身を隠しました。
その際に静御前に付いてきた狐「忠信」の絵をしばしば描くことがあります(この狐さん好きなんです)。
しかしここでも追討を受けて静御前と別れ、東国へ脱出したと言われています。
吉野山内にはその痕跡がいくつか残っています。

静御前が義経との別離を哀しんだ歌
「吉野山 峰の白雪 ふみわけて 入りにし人の 跡ぞ恋しき」
- 吉野山の峰の白雪を踏み分けて姿を隠していったあの人の残影が恋しい -

また人形浄瑠璃・歌舞伎の『義経千本桜』はその史実を元に創られ、江戸時代に初演され大ヒット作品となりました。


※1332年※
鎌倉幕府討幕運動である元弘の変の際、大塔宮護良親王(後醍醐天皇の皇子)が一時、吉野山を拠点として活動しました。
しかし、翌1333年(元弘3年)には幕府方、二階堂貞藤率いる軍勢に攻め入られ陥落します。
この時、村上義光が大塔宮の身代わりとなって蔵王堂で自害し、宮は高野山方面へと逃れたとされます。


※1336年※
後醍醐天皇は神器を持って京都を逃れ吉野山に別の朝廷を置き、南朝または吉野朝とも呼ばれました。
1339年に後醍醐天皇は吉野で崩御し、後村上天皇が即位します。
しかし1348年には楠木正行らが四條畷の戦いにおいて足利方の高師直に敗北し、さらに吉野にも攻め入られ南朝は賀名生へ移りました。
このあと長慶天皇・後亀山天皇の南朝側天皇が続きました。
後に東花坊(蕉門十哲の一人 - 各務支考)が南朝の悲しい歴史に思いを寄せて「歌書よりも軍書に悲し吉野山」と詠みました。


※1594年※
太閤秀吉が吉野山で花見を行いました。
この時の一行は5千名ほどであったといいます。
太閤が花見を行った場所として太閤の花見塚が残っています。



参考文献
・Wikipedia「吉野山」最終更新 2020/11/21 13:23








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