ハヤト





昔九州西都原で見た隼人族の雄壮な楯がずっと記憶に焼きついていて描いた絵。

最近気がついたのだけど、
エルフロのすぐ近くに角振明神とも呼ばれる隼神社がある。

ここが都だった頃、まず間違いなく隼人司として宮廷警護を担った隼人達が奉斎した神社だろう。

ここにジャパネスクがある。

決して魂を売ったわけでは無い隼人達と蹂躙制圧だけではないヤマトとの融合を垣間見る気がする隼神社(ハヤブサ)。

クマソではなく、ハヤトと呼ばれた人々の生きざまが楯の紋に象徴されていて熱くなる。

それにしても角振町の角振?
奈良だからと言って鹿の角と関連するとは限らないところがまたまた興味を惹く!
ゴズー!!の可能性が大。

山幸と海幸は、あくまでも和合したのだ。


なんとまあ、絵の中に7つの枝の木まで描いている。。



2018年9月




隼人の盾(ハヤトのたて)

1963年(昭和38年)に奈良平城京跡の井戸から出土しました。
上下に二重に噛み合わされるよう描かれた鋸歯の紋様には呪力が込められており、
黒・丹・白の三色で描かれた逆S文字の渦巻紋は吸い込まれそうなある意味不気味な雰囲気を醸し出し、
これを回転させることで相手に脅威を与えました。



「隼人」(ハヤト)は飛鳥・奈良時代、現在の鹿児島県(阿多・大隅)に住んでいた民族です。
犬舞いや狗吠(くはい-犬の鳴き真似)、朱丹粧や犬・狼のトーテム、自発的殉死等の独特な文化を持つ等、
言語・文化・風俗・習慣が他の地方と大きく異なっていました。
非常に勇猛な民族で、大和政権からの侵略に抵抗したため化外の民(夷狄-いてき)と見なされていました。
『日本書紀』の682年7月に文献上初めて登場し、正式に大和政権への服属の意志を示したとされています。

しかし決して魂まで売ったわけではなかった勇敢な部族はしばしば反乱を起こします。
幾度と無い衝突の果てに、720年から翌年にかけて総勢1万を超える大和朝廷軍との戦いが事実上最後の戦いとなり、
身を賭した果敢な抵抗は朝廷軍を苦戦させましたが、ここで遂に完全に服従することになります。


その後6年交代で上京し奉公する「隼人の調」が布かれました。
特に京都府南部(山城国)に多く定住し、京田辺市には「大住」(おおすみ)の地名が残ります。
隼人の狗吠や緋帛の肩巾(ひれ)や横刀、朱丹粧等が悪霊を鎮める呪力を持っていると信じられるようになり、
勇猛さと呪詛の象徴として立場を確立していき、大和政権の支配者層に受け入れられていきました。
そして皇宮衛門の守護や行幸の護衛を担うほか芸能・相撲・竹細工などを行うようになりました。

日本神話には海幸彦が隼人の阿多君の始祖であり祖神火照命の末裔であるとされ、
火照命が海水に溺れる様子を舞ったと言われている「隼人舞」が知られています。
その後宮廷芸能と化し、弾琴(ことひき)2人・吹笛(ふえふき)1人・撃百子(たたら)4人・拍手(てうち)2人・歌2人・舞2人の13人で演じられました。
中世に一旦途絶えているので本来の芸態は明らかではありませんが、滑稽・物真似的な芸とする説の他、
数多ある隼人の語源の一つ「テンポの早い囃子をする人」から連想するスピード感ある舞、
つまり士気を高揚し鼓舞する為の戦闘歌舞という説もあります。

京田辺市大住の月讀神社には「隼人舞発祥之碑」があり毎年10月14日の秋期例祭宵宮に奉納されていたり、
鹿児島神宮では旧暦8月15日の放生会に隼人舞が行われている等、現在にもその名残が受け継がれています。

隼人の服装は小子部栖軽(ちいさこべのすがる)が雷を捕らえた時の姿、
「緋(あけ)の蘰(かずら)を額(ぬか)に著け、赤き幡鉾(はたほこ)をあげ」
に酷似していると言われ関連性が憶測されます。



一方で、同時代かもう少し早い時代。
同じく現在の鹿児島県(球磨・曽於)に「熊襲」(くまそ)と呼ばれた、
こちらも大和政権からの侵略に激しく抵抗した民族が住んでいました。
古事記には「熊曾」、日本書紀には「熊襲」、筑前国風土記では「球磨囎唹」と表記されています。

記々に描かれる熊襲は反抗的で頑なに服従せず、礼なき反朝廷の種族と断じられている一方で、
隼人は熊襲と同様に大和政権からの侵略に激しく戦ったものの、
服属後はその勇敢さと呪詛的能力から寵遇されていく様子が窺い知れます。

都城市の諏訪神社には「熊襲踊り」が今も受け継がれており、毎年11月28日に奉納されています。
その踊りは装束からして恐ろしげで芸態も猛々しく、クマソタケルの風貌を象ったとも言われ、切顎(きりあご)の土俗面を付けます。
踊り手はバラ太鼓・親鉦(がね)・子鉦の通常18人編成で舞われ、躍動的で力感漲る展開を見せます。

熊襲を征討するに際しヤマトタケルがクマソタケルの新居落成の祝宴に童女を装って近付き、クマソタケルを刺殺した説話は有名です。



最終的に800年に実施された班田収授法に隼人も対象になり、
一般の公民と同じ租庸調が課される事で法的意味での隼人は完全に消滅(公民化・百姓化)しました。



※この文章は諸説ある内容です※



参考文献
・Wikipedia 「隼人」最終更新 2020/10/30 18:15
・宮崎の神話と伝承101
・霧島シルバー観光ガイド








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