紅蓮のいちし





一面に滲み溢れる紅い華の季節がまたやって来る


その昔の飛鳥京に
たぶれ心と謗られた女王がいた。

壮絶に波乱を生きた


典雅で崇高な赤がまた静かに京を塗りつぶしてく季節


私は何故だか

血湧き肉躍る気分を抑えられない



2018年10月




「たぶれ心」狂心(気が狂った王)と謗られた第35,37代「斉明天皇」


その元となった歴史を語り継ぐ遺構「狂心渠」(たぶれこころのみぞ)が現在の飛鳥坐神社の近くに発掘されています。

これは飛鳥に岡本宮を造るにあたり、良質の石を産出する石上山の石を垣に用いるため、
香久山の西まで運河を掘り船で石を運ぶという壮大過ぎる大工事を遂行したのです。。
その工事には3万人が動員され、船200隻を以て石を運び、垣を築造する人を含め延べ7万人余りの人が関わったと言われます。
この無謀でとんでもない規模の工事に当時の人々は酷く呆れ「狂心渠」と非難されたのです。



無類の工事好きという事もあってこの言葉の印象が強く、損をしている気がする斉明天皇ですが、
政治自体は古の道に従って執り行っており、2度も天皇になるなど当時の壮絶な波乱・激動の時代の中にあって大活躍したと言えます。

例えば対外的には朝鮮半島の諸国と密に使者を交わし、唐にも使者を遣わし交流を進め、
また蝦夷と隼人も衆を率いて内属し朝献するなど精力的に執政したパワフルな人でした。

660年に百済が唐と新羅によって滅ぼされた際、百済の滅亡と遺民の抗戦を知ると人質の百済王子豊璋を百済に送ったり、
百済を救援するため武器と船舶を作らせ西へと進軍し、戦争に備えました。

しかし遠征の軍が発する前の661年、当地にて崩御されるのです。



狂心渠は石材を運ぶためだけに運河を掘ったのではなく、灌漑用水路や水運としての活用、防御の濠としても機能する設計だとも考えられます。
海外からの賓客をおもてなしするために造られた庭園である「飛鳥京跡苑池」の構造とも絡めて考えると、将来の水利を先見した大開発であり、
とても饗応を好まれていた様子から、外から訪れる人のために飛鳥を豪奢で華やかな都にしたかったという思いを感じたりもします。


ある時、蘇我蝦夷が雨乞を行ったが微雨のみで効果が出ませんでした。
しかし斉明天皇が南淵の河上で跪き四方を拝み天に祈ると、雷が鳴って大雨が降り、その雨は五日間続いたと伝わります。
このことを民衆が称えて「至徳まします天皇」と呼ばれると言った話も残っています。



参考文献
・Wikipedia「斉明天皇」最終更新 2021/1/11 4:44




(第20話)【曼珠沙華の物語は仏教導入の飛鳥から】ELCAFLORAエルフロMitsukoのトキジク日記








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